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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

随筆 風の路 1

随筆

       風の路
       


吉馴 悠
公害の町で

 風は雲の働きで起こるように、波が風によって起こるように、人間は自らの意志をもって起こし行動する。そのことを知ったのはたくさんの時が過ぎてからだ。
 
 この町にきてからもう四十年になろうとしている。結婚してから家人のふるさとへ来たのだ。家人は交通事故の後遺症で雨の降る前は額に十円玉の様な赤い斑点が出来て頭痛がした。それを心配した義父母が隣に土地を用意しそこに家を建てろと言った。家人の慰謝料で家を建て一部を喫茶店にした。県道沿いのその喫茶店は四十年が過ぎたいまも続いている。お好み焼き、画廊、ラーメン、トンカツ、カラオケ、と喫茶をやりながら出し物を変えて続いている。今ではコミュニティハウスとしてお年寄りの憩いの場となっている。
 この町に来た頃は南の海に面したところにあるコンビナートの空は何十本もの高い煙突から五十メートル以上の炎が真っ赤に吹き上がり夜を昼間に変えていた。そこでは夜でも明かりがなくても新聞が読めたという。そんな環境を地元の人が文句も言わず黙っていたのは賠償金を貰っていたからだった。だが、少し離れた我が家からは南の空が燃えているその明かりが窓を染めて眠られない日が続くのだ。まるで火事場の隣にいる様な錯覚に陥るのだった。
 家人の実家は農業を営み、葡萄にい草に麦に米を栽培していた。コンビナートの煤煙に最初にやられたのはい草であった。煤煙が朝露となってい草を覆い先枯れをもたらした。人間を喘息へ導くほどの公害なのだからい草など一発でやられた。その頃、工場に隣接していた呼松町では梅に桃が育たなくなったという被害が出た。煤煙を海風が運んだのだ。呼松漁港は漁業権を売り渡した港であった。魚を捕って食べてもいいが商いをしないと言うことなのだ。だから背後の山に植える桃や梅の栽培に力を注いでいた時期であった。呼松の人たちを煤煙が襲い生活の方途を断ち切ったのだ。漁業権を売った経緯は漁をした魚が油臭くて売れないと岡山県庁の玄関にばらまき放置すると言う事件を起こした。工場の排水が原因だった。呼松の漁民は工場に筵旗を掲げて押し掛けた。そのような事件の後で県が仲裁に入り、漁業権放棄を条件に補償金をもらい和解するという条件を呼松漁民は飲み折れたのだった。そんな後、今度は煤煙で果実の栽培が出来なくなると言う事態になっても今度は漁民の多くはコンビナートの工場に就職していたので反対をしても工場へ押し掛けると言うことはなかった
 家人の実家は工場に葡萄畑を売った。工場に囲まれては出来いと判断したのだった。い草を植えていた県道沿いの土地に借家を建てた。工場の下請けが事務所として借りた。工場に勤める人とは別に下請けの人たちが借家を借りてくれたから農家は農地をつぶしてこぞって借家を建てた。
 その頃から公害という言葉が使われるようになっていた。公害喘息で幼い子や年寄りが亡くなっていた。
 二年前、二男が結婚し同居するために書斎を改造したおり蔵書の三分の二を処分し、公害の資料もその中に紛れ込んでいたのだ。しまったと思ったが後の祭りであった。公害のことを忘れたいという潜在的な意識があって自然に処分の方へ回したのかも知れない。その資料にはあの頃何があったかという歴史を書き留めていたものであった。公害闘争をしていた経緯もその結果も克明に記述していた。だからここに正確には書くことが出来ないが、記憶の中に沈殿しているその懲りを浮き立たせて書くことしかできないのだ。
 その頃、公害闘争は地元の人たちは殆ど参加していなかった。全国の市民運動家が何カ所かに事務所を置いて反対運動をしていた。つまり、全国の運動家が水島に入って連帯していたと言うことだ。共産党系の協同病院の医師が調査をしていた位だった。
 水島の家庭では洗濯物がくすんで乾くという現象が現れていた。空から鳥が消えていた。川の魚が遡上しなくなっていた。
 家人の喫茶店の前の山は煤煙で見えなくなっていた。百メートル先の農家も昼間から姿を消すと言うことがしばしばであった。
 家人の店は各新聞記者のたまり場となり情報のやりとりをしていた。水島に公害専門の記者を常住させる新聞社も出てきていた。
 水島には戦前水島飛行機製作所がありそこを中心にして海を埋め立て農地を買い取りコンビナートが作られたのだ。戦後、水島飛行機製作所の資材課長が物資の横流しをし、それを売りさばく商人がおり、土地を買いあさる不動産業者がおり、それらの人たちは莫大な資産を築いていた。町医者だったものが大病院の院長になり増築を重ねて発展したのは、工場の災害で被った怪我人を労災扱いとしないで自己過失として処理し、会社から金を貰うという医者の倫理感など投げ捨てて儲けに走ったのだった。
 今でもその人たちの流れがこの町を握っているのだ。
 このようなものを書く機会があるとわかっていたら資料を過失でなくするのではなかったと悔やまれるのだ。「公害講座」「地域闘争」被害の現実を書いた報告書、農地を失った農民の悲痛な叫び、漁場をなくした漁民に嘆き、公害喘息で亡くなった女子中学生の告発文、公害裁判の参考資料、森永ヒ素ミルクの被害者救済の人たちとの連帯、成田、四日市、水俣、富山イタイイタイ病の被害者、阿賀野川第二水俣病被害者の人たち、その資料は完全に喪失している現在、それを元に書き表すことの出来ないことを嘆くのだ。
「電話ですよ。杉原さん」
 そういって起こされて電話に出ると、
「どこか悪いのかな」といつもの声がした。起きると痰が詰まっていて咳き込むのだった。それを聞いて言ったのだった。
「いいえ、いつものことです公害喘息です」
 こんなに早く何かあったのかと心配していると、
「俳句を投稿して審査が通り一首三万円取られたよ」
 彼は最近長いものは書かずに俳句や和歌を作っていることは知っていた。俳句の世界と言えば俳句を道楽で作る人から法外な掲載料を取ると言うことはきいて知っていたから、
「それぐらいだったら安いのではないかな」と答えた。
 彼は端正な顔立ちをしていて若い頃は多くの女性を泣かしていた。歳を取った今でもその名残はあり若かった頃の美貌は目鼻立ちに残っていて老成された好々爺になっていた。裕福な農家の生まれで田地をたくさん所有し、バイパスが通ったおり買い上げられて数億の金が舞い込んでいた。その金で農地を買ったところが倉敷市の青果市場や漁業市場の移転で候補地になって取られて数億の金が転がり込んでいた。ある人のところには集まるものらしいと彼の幸運を祝って見ても、それはない恨み節の様なものだった。若い頃から文学に傾注していたが、物書きに金が入ると作品を書き枚数を数える事より入る金を数えるという生き方になり文学者としての彼は不幸な立場になっていた。そんな彼にはもう長いものは書けまいと思っていた矢先、和歌と俳句、二、三枚の随筆を書いていると彼から言われた。やはりそうなったかと思いが当たったことに納得をしたが寂しさは隠せなかった。彼もそれは本意ではあるまいと思うのだが物書きほど経済状態が立場を危うくするものはないのだ。つまり金が入ると物書きは書けなくなるのだった。それは書く必然が見あたらなくなるということなのだ。
「そんなもんか・・・」
 受話器の向こうでうなる声がした。色々と若い頃から助けて貰っている彼なのだが、金が入った時点で一念発起してその金で救済事業でもすればまだ書く材料に不自由はしなかったのにと思うが彼はしなかった。
 同じようにお世話になった土倉さんは身代を演劇に賭け財産を浪費し続けていた。正反対の二人であった。彼はいつも細い体に背広をきちんと着ていたが、それは育ちのせいかも知れなかった。岡山藩の家老の末裔という家柄は自由奔放に生きる、思う様に生きるという様を見せていた。それはまた杉原さんとは異なった生き方であった。
「俳人や歌詠みは今の世の中では食べられませんから、選考をして雑誌に載せて稼ぐしかないのですよ。つまり道楽でやってる人はスポンサーと言うことになります」
 冷静に言って、何もわかっていないことにあほらしさを感じこれだから金持ちはたかられる存在なのだと言い返そうとしたがやめた。
「またいくわ」と言って電話を切った。
 十二時を過ぎなくては起きないことにしているのだが、時折電話で起こされると不機嫌になる。
 窓の外を眺めるとうっとうしい空模様だった。こんな日はコンビナートの上空はどんより曇るのだ。風の強い日と、曇り空の日は煙を多く出すのだ。そういえばにおいを持った空気が鼻孔をくすぐっていた。公害認定患者になって鼻が効かなくなったという人が多かったがそんなことはなく人よりにおいをかぎ分けることが出来た。痰が絡み咳き込むのは朝方だった。
 公害監視センターの屋上には光化学スモッグが発令されると赤いアドバルンが上がった。アドバルンが上がる前に臭いと煙で関知していた。化学薬品の様な臭いが静かに満ちてくるのがわかった。百メートル前の家が見えなくなるからだ。その赤いアドバルンがいつの頃からか上がらなくなり監視センターが役目を終えたのを記憶していないのだった。たぶんコンビナートの工場が煙突を高くして煤煙を拡散しだしてからだろう。煤煙防止装置のせいではなく煤煙を遠くへとばしただけだったのだ。何十キロ先の金甲山の麓で喘息患者が多く出たのがいい例だった。今はどうか、中国の公害に対して最新の設備を提供すると言うような新聞記事を見るが日本だって今の中国と同じことをしていたのだ。地元から公害患者は少なくなったが何十キロも離れたところでどうして公害喘息がと言う問題が起こったのだ。工場排水だって浄化して魚を泳がせこんなに綺麗な水を海に流していますとパフォーマンスをして見せてもその水は高梁川の水を引いていたと言うお粗末な細工がしてあったりした。排水口は海に隠れて見えないところにあった。あの頃排水溝にセメントを流し込むと息巻いていた人が多くいたのだが声だけで終わっていた。水島で公害闘争をしだしてよく労働会館で集会を持ったがいつも公安が見守ってくれた。全国から活動家達が来ていたのだ。家人の店は終日いろいろと車を変えて見張る警察の姿があった。
「大物は違うな、護衛がつい取るやないかい」
 読売新聞の記者の桝野さんが大仰な身ぶり手振りを見せて言った。彼は水島公害の記事専属でついていて近くに下宿していた。何もない日は殆ど家人の喫茶店にいて珈琲を飲み岩波文庫を読んでいた。
「出世払いや」と言って代金は払わなかった。喫茶というところは十杯ずつ珈琲をたてるが時間が過ぎると捨てる。捨てたと思えばいいのよと家人は笑っていた。
「出世なん考えないでいい記事を書いてくださいね」と家人は言葉を投げて珈琲をたてていた。
 桝野さんは金沢の大聖寺の生まれで関大を出て読売新聞の記者になっていた。縄文顔の小太りな体躯で小股の足早に歩く人であった。歩く姿が荒い熊に似ていた。
「新聞記者と警察とやくざに所場代払っていると思えば安いものだ。多少しゃくにさわるがな」
 とおどけて見せたものだ。少しの間だが記者をしていたので記者の思い上がりを十分知っていた。
「記事で人を殺すなよ。ペンは剣よりも強だから」そう先輩から言われたのを思い出していた。桝野さんはどこで調べたのか新聞記者だったことを知っていた。誰にも喋ったことはなかったのたのだが。
 今、桝野さんは大阪読売新聞の取締重役になっている。
 今年の気候は経験をしたことのない不順なものだ。あまり空など眺めたことはないが今年は良く眺めた。見たことのない雲が一面を覆っていた。子供の頃眺めた雲と違っていた。冷たい雨を抱えてたじろぐ雨雲、晴れようか曇ろうかと不惑する雲、太陽を拒絶しているように見える雲、それらの雲が曖昧な天気を生み垂れ下がっていた。天気予報はあまり当たらなかった。刻々と変化する天候に予報を変えるのが追いつかないくらいだった。明日は晴れるという予報で行動を決めるが雨になったりした。櫻が咲く頃までは冬から春に向かっていたのだがそれからが暖かかったり寒かったり、まるで春から冬へ戻ったのかと思える日も多かった。三寒四温と言う言葉は死語になろうとしていた。櫻の花に雪が積もっているニュースが見られた。東京では一日の温度差が十七度も違う日があった。人間の精神も体もその気候について行こうとすると疲れるだろうと思った。プロ野球も五度の寒い中行われふるえながらプレーをしていた。
 地球温暖化と言われて久しいが、むしろ寒冷化へ進んでいるのではないかと思われるのだ。幼い頃と比べたら確かに暖かい。川に氷は張らないし水たまりにも張っているのを最近見たことがない。確かに冬の気温は暖かいと感じるが、夏はもっと暑かったように思う。今と昔は生活環境も違うから比べられないかも知れないが。風通しのいい家に住んでいたから寒暖は直に皮膚に感じたのだろうが、その頃の気候は今のようではなかったと思うのだ。洗濯物がすぐに凍り、夕立でずぶ濡れになった記憶がある。今ではそんな昔を懐かしむ心はあるが。
昔は良かったという言葉が出るようになったら歳を取った証拠であると言うが。懐かしいと言うことと良かったと言うことは少しニュアンスが異なる。あの頃のことはひどいものだった。大気汚染の中で生活をしていた。人間の生きる場所ではなかった。臭いのついた空気と色のついた風がながれていた。空を飛ぶ鳥の姿は見られなかった。川には魚が一匹も泳いでなかった。濃度の数値PPMではなく鳥を返せ魚を返せと叫んだ。すんだ空を、臭いのない空気を返せと叫んだ。
「電話代が払えないんです。この本をいくらでもいいから買ってもらえませんか」と今のNPOのような組織の公害阻止水島の運動家から電話がかかってきた。
「あの連中とはあまりつきあわない方がいいぞ」紹介しておいてそういったのは仲間の須山さんだった。
「金がないと女の子が体を売っているんだ。そこまでしてこの国を何処へ持って行こうとしているのかね」
 その人たちの公害闘争というものは一体何であったのだろう。人間の基本的概念を捨てても尚公害問題を重視していたとなると、そのすさまじい闘争心には頭が下がるがどこか間違っているのではないかと疑問符がつくのだった。
体を売ってまで公害を阻止しようとする意味は何であったのだろうと。そうすることが運動家のプロであったのか、今でも考えさせられる問題だった。何冊か買わされた。本を出しすがる言葉に情が移つたのだった。
 また公害を叫んで食っている人たちもたくさんいたのだ。代議士の「この名刺を持参した人は私の昵懇の者であるのでよろしく」と書かれた名刺を公害企業に出して車代を十万単位で受け取る者がいた。その人たちは業界紙の者であった。そんな人たちが横行していた時代でもあった。戦後まだ社会秩序が整備されていなくて様々な種類のたかりが跋扈していたのだ。その人たちに比べて体を売って維持費用を調達し運動する人もいたのだ。それを社会正義と言うには悲しすぎる。人道的な立場で運動しているとしても何か矛盾を感じてしまう。何か裏がありそうだといらぬ勘ぐりをしてしまうのだった。人の命の大切さと地球の未来に思いを馳せているとしたらせこい通俗的な考え方をしていたと言うことになる。まるで神か仏の様だと手を合わせなくてはならなかったことになる。
 今、その人たちのことを思い考えても答えは出てこないのだ。
毎日のようにコンビナートから大砲を撃ったような音が響いてきていた。カメラとビデオカメラを積んだ車に乗ってコンビナートへ出かけるのだ。事故が起こると企業の人たちの車がヘッドライトを点けクラクションを鳴らし放しで猛烈な勢いで走っていた。その日によって違うが社旗をなびかせた新聞社の車がトップ争いをして走ってくる。一番後はいつもNHKの記者が乗ったタクシーだった。小さな事故は毎日のように起こっていた。各新聞社の記者は市役所の記者クラブにいてそこで倉敷市の発表を原稿に起こすのだ。だから殆ど同じ記事になってしまう。特ダネを得ると言うことはほとんどなかった。家人の喫茶に記者が集まっていたのは公害闘争をしていた私がいたからだったのかも知れない。何か新しい情報を手に入れたいという淡い期待を持って。     
 石油会社が原油を流失したときにストロボを焚いて写しそのカメラを保安に取り上げられたたき壊された記者がいた。引火に神経質になっている現場でストロボを焚くと言う行為は記者の意識の低さで笑いものになることだった。工場から流れ出た原油は水島灘を真っ黒な海に変えた。対岸の丸亀、玉野の沖、小豆島まで流れ海を汚染していった。消防艇と漁民の船でオイルフェンスを張り中和剤をまいたがなかなかはかどらなかった。漁民やボランティアはぞうきんで岩にへばりついた油を拭き取るという事に懸命だった。瀬戸内海の魚は市場に出せなかった。油の臭いのする魚を買う消費者はいなかったのだ。その問題は市議会にも取り上げられ、工場側と漁民の話し合いが持たれ市中に入って補償金で解決をさせた。
 工場までデモをしたが警察はデモに参加した一人一人を写真に撮りまくっていた。こちらが警察官をカメラに取るとひどく怒ってカメラを取りフイルムを抜いた。肖像権が認められているのは警察官だけでデモ隊はないことを知った。
 公害は終わっていない。全国の公害の被災者が元気にならない限り終わっていない。中国や開発途上国の公害に手をこまねいて見ている無責任は許されない。多くの被災者を出した日本はその国が被災者を出さないようにアドバイスをする事で日本の公害患者の許しをえなければならない。賠償をしているからいいと言う問題ではない。政府も企業も過ちを償う気持ちがあるなら二度と公害患者を出してはならぬと言うことを肝に銘じるべきなのだ。
 四十年間つぶれることもなく細々と営む喫茶店がここにある。そこには公害を語り継ぐ人がいる。


語り継ぐ

 思いを伝達する方法として言葉がある。色や音、身振り手振りや目で物を言うと言うこともあるが一番確かな方法としてはやはり言葉だろう。文字で伝えると言うこともある意味では効果的な場合が多々あるが。

 母は脳卒中の後遺症で右半身が動かず言葉を失っていた。伝達方法として言葉ではなく動物の鳴き声の様な声を上げていた。孫の意味不明の音の羅列とよく似ていた。孫のそれは理解出来ないけれど母の音は暮らしているうちに理解が出来るようになった。以心伝心とでも言うのだろうか何をしてほしいか何を望んでいるかが良くわかった。だが、血の連鎖で言えば母と孫とはそんなに隔たっているとはいえないが言葉を持っていた母とこれから言葉をものにしようとする孫とは見えない何かがあった。母とは年月が通わす力をもたらしてくれたのだろうか。生活の殆どの事を判断できたから要求を叶えてやれたのだった。滑舌のない音を体で受け止めて今の母は何をほしがっているのかを考える。大方の望み通りしてやれたのだ。母の一日の生活が決まっていて単純だった所為かも知れない。
 その頃失業保険を貰って勉強をしていた。小説やシナリオの勉強をしている貧乏な青年たちは半年勤めて三ヶ月失業保険を貰いながら本を読んだり原稿を書いたりしていた。それは将来に向けての知識と言語の貯金の様なものだった。そのようにして作家になった人が沢山いた。成功への段階として同人誌に入り作品を活字にし中央の同人誌批評審査を仰ぎ「文学界」に転載して貰うという方法と懸賞へ応募して賞と賞金をものにするという方法があった。それらすべては途轍もなく遠いものだったが。それを夢見て沢山の青年たちは寝ずに勉強していたのだ。徹夜で原稿を書いて辛いと思わなかったのは全国に沢山の文学青年達がいて頑張っていると思うと負けてなるものかという闘志がわいたものだった。どちらの方法でもいい作家になれればいいというものだった。同人誌で活字になるという事も会の編集委員の審査を通らなくてはならなかったし、同人誌には主宰者によってレベルが決められてあってレベルに達しているか超えていなくては掲載をしてもらえなかった。原稿は何十という会員が出していたから発行の前に掲載作品が発表されるのだが何年いてもお呼びのかからない会員が殆どだった。掲載が決まっても原稿用紙一枚幾らの負担金がいったので辞退する会員もいたくらいだった。同人誌の作家達はそれだけ貧しかったのだ。その人達は掲載作を書いたというレベルに達したことを喜んだ。新聞の同人誌批評にでも取り上げられたら飛び上がって喜んだものだった。定例の会合、雑誌の発行後にある合評会で新聞雑誌の批評は公開された。同人誌のレベルとはどれだけ掲載作品が批評されたかと言うことでも決まった。特に「文学界」と「文芸」の同人誌批評が重要視された。倉敷市役所に勤めていた杉原さんが「文学界」の同人誌批評ベストファイブに入ったことは快挙だった。十八で書いた処女作の戯曲が「文芸」の同人誌批評で取り上げられた。主宰者の小林実さん(直木賞候補作家)は「この作品は中央の雑誌に掲載されてもおかしくない」と評してくれた。
 月に一度の定例会で課題図書の合評をした。芥川賞の受賞作品を取り上げることが多かった。坂口安吾、安部公房の作品もその会で読んだのだった。サルトルやカミュやジイドが話題になりこぞって会員は読んでいたのだがどれだけ理解出来たのかは不明だった。初めて知る作者と作品にとまどいを持ちながら読んだのだ。よりによってこんなに難しい作品を読んで創作をするのに何の影響があるのかと思ったものであった。
 文学とは文字を連ね文章表現で読者に書き手の思いを伝えるというものであった。作者の思いは自らの生活によるところが多くそれに直結するものであると言うことがわかっていたのだろうかと思う。それは体験主義とは違って社会の動きがわからなくては人間が描けないと言うことなのだがそのことを無視して書いている人たちが多かった。00市警察という表現が出てきた時には驚いた。その作品は日本の物語であったのだ。日本には市警察は存在しない県警でなくてはならないのだが作者は治安がどのようになされているのかに無知だったのだ。それを掲載した編集委員は、
「そんな些末なことはいいのだ。人間が書けていれば」と嘯いたものだ。文学とは社会に直接繋がってなくてはならないと思うがそうではないという編集委員に会員は何も言わなかった。同人誌作家という特殊な位置にいる人たちは文学界の中だけで生きていて社会とのつながりをなくしている人たちが多かった。その人達は社会に復習されるように文学から遠のき去っていった。経済的な理由であった。いずれプロの作家になっても社会の仕組みや建前を知らない作家は淘汰されるのだからその前に気づき姿を消すことは良かったのであったろう。若いときには文学青年で大きな夢を見ていたと人生の半ばで振り返る思い出を作ったことには満足であろうが、それはただの夢であり長く続けていればいずれ経済に押しつぶされる存在になっていたであろう。続けていなくて早く気がついた事を喜んであげたいのだ。すべての作品が掲載される様な人たちには社会の中で生きている人間が描かれ読んでも納得させられた。だがそんな作品はそんなになかった。文学的な生活をせずに書く作品はただの自己満足でしかなかった。夢の中で夢を書く、書く必然は少しもない様な作品だった。男とおんなの恋愛を書いているのだがそこにはエロスも性がかかれていないというふうにである。それと戦争体験の作品、戦争を真っ向から否定し戦場でどのように生きたか生き残ったかの戦争本質がかかれていない作品をどれほど読まされたか。自分の体験はどのようなものより面白いし反戦提起だとするそれらは世に問うべきではなく老後に思い出としてしたためるものであったろう。それらに文章の完成度と後何歩もつっこんだものであれば世に問えたものであったろうがそれがなかったのだ。自分の事を書く私小説は第三者の目を常に持ってかかなくてはならないのだ。
 どのような作品を書かなくてはならないかを同人誌で勉強した。
 半身付随の母の面倒を見ながら華麗な恋愛小説など書けはしない。それは夢なのだ、そういう立場でものを書いてきたのではない。それは小説の題材ではなくて手記の類であるのだ。社会の歪みの中の人間の姿を必然として書いた。
 母がうーとうなり声を上げると何をしてほしがっているのかがわかる小説を書きたかった。今の人間に必要なものは何かを探し歩いた。それはまじめに生活をしなければ見つかるものではなかった。
 言葉の表現。音の伝達それは心のこもったものでなくては通じないと感じた。優しさと真実は文学の基礎でなくてはならない事を学んだのだった。もう半世紀前の話だ。
 色と臭いの有る文章を求めて彷徨いつづけ、声にも言葉にも色があることを今ようやく気づいているが・・・。


     猫の九太郎

九太郎という牡の猫を飼っている。
劇団員の少女が捨て猫を見つけてかわいそうだから飼ってもらえないだろうかと言うことで面倒を見ることになった。犬猫の獣医助手を目指す彼女に拾われたと言うことは捨て猫にとって幸運だった。が、飼う方には災難であることの方が多い。小さな泣き声であった子猫は大きくなるに従い猫の特性を遺憾なく発揮しだした。トイレにおしっこをしなくてくんくんとかぎ回り何処へでもおしっこを垂れ流しだしたのだ。マーキングである。猫のおしっこは犬と違い特別臭い。その臭いが家中充満した。家族に取っては耐えられるものではなかった。猫を飼うとこのようになると言う現実は充分に知っていたが猫には返さなくてはならない恩義があったのだ。恩のなんたるかを知らない家人は恐れ多くも、
「また猫を飼うのですの。飼うのだったら去勢をしてくださいよ」
 と平然と言ったのだ。恩義の有る猫にそんな動物である証の子孫を残すための行為に必要なものを除去出来るはずはないではないか、と言おうとしたが声が喉に詰まり胃袋に落ちたのだった。それは病気の所為ではなく去勢しろと言う家人の心理が怖かったのであった。九太郎を車で連れ出して二時間ほど走って帰り、
「見事にたまたまを切除したぞ」と嘘を言ったのだ。それは妻に対する従順より恩義に対しての方が大きく重かったからなのだ。
 三十年程前に仮面鬱病になったときに家の前のゴミ捨て場で三毛猫の雌を拾った。弱々しい声で泣いて哀れを誘っている猫に同情して夕餉のすき焼きの残りを食べさせてやった。お腹が減っていたのかおいしそうに食べる姿に感動しついつい家に上がらせたのであった。その猫に茶子兵衛と名付けた。
 その頃肩がこり眠られず体が重たいし頭がボーとしていた時期であった。何軒も医院を訪ね診察を受け薬を調合して貰ってもいっこうに良くならなかった。おかしいと感じたのは県の青年大会の演劇部門で最優秀賞を貰い全国青年大会に出発する日に現れた。足がだるく息切れがして動けなくなったのだ。前日は興奮して眠れなかったので睡眠不足からくるものであろうくらいに考えて無理をして東京に行ったのだ。渋谷の参宮前駅で降り代々木オリンピックセンターまでの距離を歩いたのだが陸橋で立ち往生をしてしまった。どうしても階段が上れないのだ。階段を二三段上ると心臓は早鐘を打ったように鼓動し呼吸はぜいぜいと悲鳴を上げだしたのだ。一週間東京にいたが何がどうなったか定かに覚えていない。何度か医院のドアを開けたのは記憶しているが。そのほかは心臓病患者の様な不整脈と動悸の早さと喘息患者の様な息切れだけを記憶しているのであった。目黒公会堂での公演結果がどうであったか帰って聞くまでは定かではなかった。優秀演技賞と最優秀舞台美術賞を貰っていた。帰っていろいろな専門医に診て貰ったが正確に病名の診断を下す医者はいなかった。二階の書斎に上がる階段の途中で立ち往生をする事もしばしばであった。深夜とか静かにしているときに突然この世の終わりを告げられたような不安発作に襲われ何回も救急車で救急指定病院へ行った。着くと動悸は収まり息切れも治っているという状態が続いた。医者は何のために来たのかと言う顔をした。不安発作が鬱によるものとは判断できなかったのだ。
 その頃茶子兵衛が現れたのだ。猫は心臓病と高血圧と精神の歪みの病気持ちに心の安穏を与えてくれる動物だと聞いていたのだがそれが真実かどうかはわからなかった。そう思って猫を飼ったのではなかった。捨てられた猫に我が身を重ねて哀れを感じたのであろうか。か弱い飼い猫がそばにいると言うことは精神を安定させる作用があった。茶子兵衛の動作を見ていると心がいやされた。同じ症状の焼き肉屋の旦那が迎えに来てくれ川崎医大の心療内科を受診した。貰った薬を飲むと体のだるさがなくなっていった。眠られるようになった。頭も軽くなった。肩がこらないようになった。不安発作も少なくなった。茶子兵衛はじゃれついて慰めてくれた。病名は仮面鬱病と診断されたのだった。医者の治療と茶子兵衛によってだんだんと恢復をしていったのだ。茶子兵衛は一日ボーとしている主のそばを離れず見守ってくれ見上げる目は心配そうで優しかった。いつも体のどこかへ尻尾をくっつけていて様子を見ていたのだ。テレビに対して話しかけ怒鳴る事しか話相手のなかったのだが茶子兵衛は話相手になってくれ独り言愚痴を聞いてくれた。その茶子兵衛は二年後に尿路結石による腎臓病でなくなった。もっと早く犬猫病院に連れて行ってやれば長生きが出来たであろうと後悔したものだ。
 猫にはそんな思い出があり恩義があったのだ。
 九太郎は何度か尿路結石になったがそのつど犬猫病院へ連れて行き茶子兵衛の撤を踏むこともなくなった。茶子兵衛のためにも九太郎を同じ病気で死なす事は出来ないと思っている。茶子兵衛の恩返しのためにその後三太郎を飼ったがその頃もまだ仮面鬱病は全治してなくいやされたのだ。元気になった今九太郎に手を焼きながらも面倒を見ているのは茶子兵衛と三太郎への愛情の印なのかも知れない。
 九太郎を連れてきた劇団の少女は獣医の助手になり次男の嫁になって同じ屋根の下で生活している。今では双子の母である。


     演劇の作用

 野球少年であり映画少年であったのは今から六十年前であった。野球は少年野球を一生懸命やりすぎて肩を壊してやめた。残るのは映画だけであった。祖父が無類の映画好きで自転車の荷台に乗って映画館に通った。西部劇とかターザンの映画だった。子供が見るのだからと祖父が選んでくれたのだろう。それから映画好きになったのだ。小遣い銭はすべて映画代に変わった。中学から高校時代に東映の新諸国物語シリーズ、錦之助の股旅もの。大映の十代の性典、姿三四郎、祇園姉妹、座頭市シリーズ、悪名シリーズ、陸軍中野学校シリーズ、眠狂四郎シリーズ。日活の裕次郎の映画、ギターを抱いた渡り鳥シリーズ。東宝の若大将シリーズ、黒沢の映画。松竹の人間の条件シリーズ、大学の三羽烏。と思い出すとざーとこの程度だけれど、思い出しても題名が浮かんでこないものの方が遙かに多い。外国映画はあらゆる分野のものを見た。特にハリウッドのミュージカル映画、フランス映画を好んで見たように思う。これが高校までのものでその後数えられない程スクリーンの前で時間を費やしたものだ。当時の映画好きは皆映画スターにあこがれたのだが、吃音がありあきらめたのだ。新聞社にいた頃は顔パスで映画が見られたの封切り物はすべて見て歩いた。十九歳の時に書いた戯曲が中央に発表しても遜色はないと言われてこの道を極めようと決心した。映画が好きで沢山見たことが道を誤る元だったか。文学や映画、演劇の世界へ足を踏み込んでいなかったらもっとましな人間になれていたことは確かのようである。同人誌に入り沢山の小説を書き活字にした。それから懸賞に出して文学賞の小説入選と戯曲が脚本賞に入ったくらいで終わった。毎日新聞に三年間一ヶ月に一度随筆を連載し投書を沢山貰った。地方夕刊紙に小説を連載してかかりつけの医院の奥さんにいやらしい目で見られた。日本の有名演出家、劇作家の集団の舞台芸術演劇人会議の立ち上げ発起人となったり、日本劇作家協会に所属したり、篠田正浩監督の映画制作を四作手伝ったり、文化振興財団の企画委員を十数年間したり、国民文化祭の企画委員をしたりの遊び人でなくては出来ない事をした。高校演劇の台本を多数書き、青年演劇の台本も数多く書いた。そもそもその発端は演劇の台本を倉敷演研の土倉さんに頼まれて青年演劇の台本を書いてからだ。自作で倉敷の青年が全国青年大会の文化の部に四度出場した。土倉さんには色々と演劇の基礎を教わった。多分に反面教師的なところがあったがそれも取り込みかみ砕いて劇団滑稽座を創設した。作品のテーマはすべて倉敷であった。十年間に六十公演をこなした。今までに台本だけで二百作を超えている。
 その間仮面鬱病に悩まされたがお医者さんの投薬と飼い猫の茶子兵衛、三太郎、九太郎、飼い犬の五右衛門の癒しで良くなったが時折不安発作は消えていなかった。台本を書き稽古に立ち会う事によりそれもだんだん消えていった。
 家計は家人が喫茶店を切り盛りしてくれていたので食べることに何の不自由もなかった。公演の一番の観客は家人であった。病気が良くなることを真剣に祈り時間を自由に解放してくれた家人に見せるための公演でもあった。その公演を見ることが夫が一日中何をしているのかを理解する事の出来るすべてであったろう。二人の息子も劇団に参加してくれて病気治癒の応援をしてくれた。
 今は台本を書く気がなくなっていて何時足を洗おうか思案している。もっぱら駄文をパソコンに打ち続けているのである。
 演劇をすることにより仮面鬱病から完全に逃れる事が出来たのである。公演の台本の中には茶子兵衛、三太郎、九太郎、五右衛門がいつも出て励ましてくれるのは当たり前になっているが・・・。

     花の効用

 歳を取ると明日の予定がなくなり何もすることがなくなる。人は明日になにかを約束されていることがなんと幸せなのだろうと思う。些細な事でもいい明日はこれをしなくてはならないと言うものが有れば眠って明日を迎えるのが楽しくなるものだ。それを幸せというのであろう。

 最近家の周囲のあいている場所に花を植えた鉢を置く癖が付いたようである。植木鉢を百円ショップで二十鉢ほど買ってきて、ホームセンターで腐葉土二十キロ袋を十袋を買い、花の苗を何十と買い鉢に色とりどりの花を植えそれを並べて見るのが好きになった。これも歳の所為なのだろうかと考える。元々土いじりは嫌いな方ではなくスパーで野菜が入っていたスティロールの入れ物を貰ってきて腐葉土を入れそこにトマトやキュウリにナスなどを植えて育て収穫を楽しんだものだった。町の真ん中で家庭菜園をして買った方が安いようなものを作ると言うことには抵抗はなかったが、
「いい趣味ですな」と近所の人から揶揄ともとれる言葉を何度も言われることには抵抗はあった。育てる喜びは安かろうが高かろうが関係ないと思うのだが世間ではすべて金額で押しはかるらしい。誰がなんと言おうと我かんせずを決めて生きて来たからいいのだが僅かな場所での収穫は思いの外多かったので家人と二人の生活では食べきれなくなった。食べないものを作ると言うことは実を付けてくれる植物に悪い様に思えてやめた。
人間はやがて土に帰ると言うが、歳を取ると土になじみたくなるのはその所為なのかと思う。土が生み出す生命力は植物に生きると言う活力を与え成長させる。
老いゆく我が身が土によって生命力を与えられ育つトマトやキュウリやナスに復活を託しているというのだろうか・・・。毎日成長を見ていると若かった頃の思いがよみがえる。ひとときでもその思いを感じるという事は老いゆく人たちには必要なことなのだと言い聞かせる。
「病気にならずに大きく育ってくれよ」と水をやりながら声をかけるのだ。自らに誰かがいたわりと励ましの言葉をかけてくれるように。野菜達はその言葉に元気づけられすくすくと育っていく。元気に育つことを見ているとこちらも元気になるという副作用が生まれる。
 花に例を取って見ると美しく咲き誇ることは命のある証であり花の性なのだろう。ならばそれを育てる人に与えるものは命に他ならないはずである。老いた人が花を植え育て花を咲かすことは摂理のように自然なのである。
 その自然が生み出してくれる果実を食べられないからと腐らす行為は老いた人には勿体なくて出来ることではないのだ。勿体ないという言葉を使ったがそれは間違っているかも知れない。不遜な行為なのだと言い換えてもいい。命あるものを食べ後に種も一緒に排泄され大地に帰りやがてよみがえって新しく芽を出し命を継続するその行為を奪う権利はたとえ老いているものがしたものであっても許されるものではない事に気づいたのだった。だから野菜の菜園はやめたのだった。今そこには花の鉢が何十個と置かれ咲いて枯れていく花の生き方を見ているのだ。それは森羅万象の定義を如実に物語り老いていく我が身と重ねられなぜか安心することが出来るのだ。命あるものは等しくその終わりを告げられる。これは皆平等に訪れることで金持ちであろうと貧乏人であろう訪れるものなのだ。人間はその事を知り少し安心するのだが自らの人生を悔いて生きていた人達を、
「人間はみんな死んでいく、生きていることは次世への階段だ」と思わせてくれる安定剤なのかも知れない。
 花が時がくれば枯れるように人もやがて役目を終えると枯れるように死を迎えるものだ。だが花はしっかりと次の季節には芽を出すのだ。人間は子孫の中に生き続けているものなのだろうか・・・。
 
 南木佳士さんの一連の随筆と小説を読んでいるとこのような考えが生まれた。今たばこをくゆらせながら書いているが死は平等であるという確信は一種の寓意のように思える人も多かろう。
 野菜にしても花にしても心があるならなんと考えるだろうか・・・。

     国文祭
 
 文化民度とは何だろう。文化に関心のある比率と言うことになるのか。つまり文化が人間の生活に必要なものなのだと言うことを知っている人たちがいかに多いいかなのだろうか。それは雅性と言う言葉で置き換えられるのか・・・。

 遊び人を気取って生きている私のところへ国民文化祭現代劇の企画委員をしろとの要請が来た。一日何もせずボーとしているので断ることもないだろうと引き受けることにした。これは謙遜したのであって何もしないのではなく今はしていないという事なのだ。毎日を文化的な生活をしているしものを考えて生きているのだ。文化的というと電化製品に囲まれて生活をしていると解釈されそうだが心の空白になにかを創造させ感性を磨いて種を蒔き植えていると言うことなのだ。ものを創造するという事はみずみずしい感性だけでは出来るものではない。感性を研ぎ澄まし独自のものにした雅性が必要なのだ。芸術というものにはそれがなくては潤いがなくなってしまう。
そのような芸術的なものが果たして県民性が文化民度の低いのに出来るだろうかと不安だった。企画委員は九人で構成されていた。それぞれが劇団の代表らと演劇をプロデュースしている人だった。メンバーを見てこれは面白くないぞと思った。我も我もと言う一言居士の人たちが多かったからだ。これではまとまるものもまとまらない。その不安は第一回目の企画委員会議で的中した。私はメンバーの演劇を見たことがなかったが話の内容でおおよその判断が出来た。どうも演出を担当する人はそもそも演出ノートを書かなくてはならないし脚本分析をしなくてはならないだろうにそれが出来ているとは思えない話ぶりだった。脚本分析に至ってはその方法すら知らないらしかった。それは頭の中でしているとは思えなかった。演ずる方も脚本分析をしてテーマを見つけ出さなくてはならないのだがそれもおぼつかないのだった。作者が演出するのだったらそんなものは頭の中にあるのでいらないのだがそうでないひとの場合作品の中のいくつもあるテーマの中からどのテーマで演出するのかを決める場合分析は必要不可避なものなのだ。そのNPOの演劇フォーラムは毎年何回か開かれ「劇作の仕方」とか「演出とは」で名のある講師が講義をしたらしいが一体何を教えたのか問いたくなるのだった。また最近は朗読劇なるものがはやりだが、材料を探す目の低さはあきれるものがあった。
 やはりと言っていいのか、決まるものも決まらなく無駄な議論に終始していた。時間は過ぎるばかりであった。文化的民度の低さを露呈していたのだ。中心公演を創作する側がこんなものではそれを見る観客はどんな人なのだろうと頭をかしげたものだ。
 愚痴はさておきこのメンバーで企画を作らなくてはならないという現実はあったから話を進めることのほうに回った。
   

孫の薬

 年寄りの薬に孫がいるかいないかという問題がある。孫がいればどんな薬も効くのだ。そう断言出来る根拠は薬好きで効くか効かないかわからない薬を沢山のんでいた私が孫が出来てからは薬の効用は顕著になっていると言うことだ。飲み続けなくても良くなったのは心の平安を見つけられたと言うことに他ならない。何より孫達の笑顔は万能薬なのだ。統計を取ってみると孫のいる年寄りとそうでない年寄りの長寿率は明らかになるのではないかと思う。明日に何もすることのない年寄りの多い中、明日も孫の笑顔が見られると言う幸せを持っている年寄りは生きているといえるのだ。何もすることのない事は本当に寂しいものである。
「孫より我が子が可愛いに決まっている」と嘯いていたのだが孫が生まれてその認識を捨てた。比べるものではないと気づいたのだ。我が子のそれは嗜好品であり孫のそれは必需品だと言うことだ。なくては困るものになっていると言うことなのである。「孫」という歌謡曲が十年くらい前にはやったが俗な表現をすれば歌詞の通りになるが、もっと崇高なもので精神的な高揚をもたらせてくれよりどころになると言うことなのだ。可愛いと言うより安定剤なのだ。だから孫のいる年寄りは長生きをすると言うことだ。つまりストレスを除去してくれる存在なのだ。       
 孫は長寿の必需品と言うことになる。孫かわいがりが高じて自分のような人生を歩ませることにならないようにしなくてはならない。
自分の人生を素晴らしいといえる人はどうか、だが孫にとってそれが十全の幸せな人生であるとは限らないのだ。孫の個性を見抜いてそれを伸ばしてやるのが長く生きた年寄りの慧眼なのだ。孫を薬とした者は孫の個性を見抜いた接し方が求められるのだ。唯長く生きて孫と接することだけでは許されないと言うことなのだ。


     


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